家までが遠足──その一言は、先生のやさしい安全祈念型術式

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“もう安心”が一番キケン?──良寛とノボ太郎の木登り物語

昔々ある村に、良寛という僧侶がおったそうな

その姿、漆黒の衣に包まれ、言の葉は闇の淵に封じられ、時折わずかな数珠の音だけが零れる
まばたきすら悟りとともに削ぎ落としたかのような、底知れぬ眼差し──

風が吹けば、
「良寛が山を歩いたのだ」とささやかれ──

雷が鳴れば、
「誰かが良寛の教えを破ったのだ」と噂されるほどだった

村の子どもたちは言う

「良寛に見られたら、心まで読まれるぞ…」
「良寛が立ち止まると、息ができなくなるぞ…」
「良寛に背を向けたら、“無”にされるぞ…」

それほどまでに、村人から恐れられていた

ある日のこと、
村の子たちが、村一番の大杉の木に登って遊んでいた
今、大杉のてっぺん近くにいるのはノボ太郎。村一番の木登り名人だ
枝先が風でうなり、下から見上げる者たちの首が痛くなるほどの高さだった──

ノボ太郎が頂上にたどり着くと、下で見ていた子どもたちが「おおっ!」と歓声を上げた
その声で大人たちが次々と集まってきた

やがて、ざわめきがすっと静まり返る──
誰もが知っていた。あの高さから落ちれば……命はない
木の葉がかすかに揺れ、ひゅう、と風が鳴り、枝がぎしりと軋む

「おいノボ!そこは危ねぇぞ!」
「落ちたら……死ぬぞぉ!」
「はよ降りんか!」

声が木の幹を伝い、上空まで届く
さすがのノボ太郎も、頂上では顔がこわばり、指先に力がこもっていた
だが一歩、二歩と降りはじめると、枝がわずかにきしむ音の中、木の中腹からはするすると軽やかに降りてきた

そして最後の枝をかわし、地面まで“あと一歩”──
それを見守っていた子どもたちも、大人たちも、そしてノボ太郎自身も、胸の奥で同じ言葉をつぶやいた

『……もう安心だ』

その瞬間、風が止んだ

木の根元に……良寛が、音もなく立っていた
その眼は風すら許さぬように、じっとノボ太郎の行く末を見据えていた

ノボ「……いつの間に⁉️」

良寛の口が開き、低い声が風のない空気を切り裂く

良寛
良寛

その一歩、ゆめ油断するでない

ノボ太郎は動けなくなる
その瞬間、心臓が一拍、打つのを忘れた

良寛
良寛

人は……“もう大丈夫”と思った瞬間にこそ、
足元から崩れ落ちるのです──

ノボ太郎はごくりと唾を飲み、震えながら最後の一歩を踏み出した
枝がみしりと鳴り、足裏に冷たい樹皮の感触が走った

──ヌルッ
手に、生き物のような感触がまとわりつく
見ると、そこには村の子が虫をとるために塗った樹液が光っていた

「……もし、あの言葉がなかったら──滑って落ちていたかもしれない」

良寛は、無事に大杉を降りたノボ太郎に背を向け、
静かに、けれど耳に残る声でつぶやいた

良寛
良寛

……家に帰るまでが、遠足です

子どもたち「…………え?😮」
大人たち「…………え?😮」
ノボ「…………え?😮」

良寛
良寛

べ、別に心配してたわけじゃないんだからなっ///

風が吹いた

木の葉がカサリと……笑った

この話、実話?──良寛伝説とフィクションの境界線

どり
どり

どーもぉ!どりです(^^)/

これって、実話?

いいえ、私 どり の創作=フィクションです

でも、まったく どり のオリジナルフィクションという訳ではなく

昔どっかで聞いた話しをちゃっぴーに調べてもらったら、そんな話しはネットで落ちてないっていうから作っちゃいました笑

オリジナル知ってる人がいたら教えてください(^^)/笑

この記事の良寛は怖い坊さんという設定だったけど、これはフィクションで、本当は優しく人々から慕われる僧侶でした

良寛ってどんな人?──江戸時代に生きた“やさしい禅僧”の素顔

良寛は江戸時代後期に実在した禅僧です!

良寛が生きた時代は、浮世絵や歌舞伎・俳句などの町民文化が花ひらき、ペリー来航の少し前の江戸時代最後の平和で安定した時代でした!

良寛は、大きな寺を建てたり、宗派を作ったり、目に見えてすごい実績を作ったから有名になったわけじゃないんだ

良寛が有名なのは、そのやさしさや教え方の上手さ、心に残る生き方をしていたからなんだ

ちょっとだけ、良寛のエピソードを紹介するね!

“今を楽しむ”禅のこころ──子どもとの会話から

子ども「良寛さん、禅って何ですか?」

良寛「禅とは、花が咲いているとき、花の美しさを見て楽しむことだよ」

~ただ花の美しさを見ることが禅であり、今この瞬間を楽しむという良寛の教えが伝わるエピソードです~

“苦しみの中にも意味がある”──無心で生きる良寛の教え

ある冬の日、良寛が寺の門前で寒そうにしていた若者に声をかけた言葉

「寒いだろうけど、この雪を踏んで歩くことで、足元の世界が広がるんだよ」

~ただの苦しみに見える事でも、心の成長として受け入れ、無心で生きるという良寛の教えが伝わるエピソードです~

“逃げずに向き合う勇気”──大切なものを守るために

良寛はある日、借金に悩み、自殺しようか、家族や故郷を捨てて夜逃げしようかと悩んでいる若者に出会いました。

良寛はその若者にこう言いました

「お金を借りるのは簡単です

しかし、返すことは本当に難しくて苦しいことです

お金を返すより、この世や故郷から逃げるほうが、確かに簡単かもしれない

でも、その難しさや苦しみから逃げずに、心を込めて返すことが大事なのです

そうすれば、あなたは本当に大切なものを失うことはありません」

~逃げることは簡単でも、誠実に向き合い、本当に大切なものを守るという良寛の教えが伝わるエピソードです~

『家に帰るまでが遠足です』に込められた本当の意味

「家に帰るまでが遠足です」って、確かおれが小学生だった昭和の頃は聞いたことがなかった気がする

ちゃっぴーに聞いてみたら、インターネットが普及する少し前から全国の学校で自然に使われるようになって、特定の人やメディアが発祥だとは考えにくいらしい

でも、初めて聞いた瞬間に、言いたいことはすぐに伝わった気がする

ちょっと深掘りして考えてみる(^^)v

“遠足”の本来の意味──江戸から現代まで

遠足という言葉は、江戸時代から使われていたもので、元々は長い距離を歩いて行くことや移動することを指していて、江戸時代の武士や町人たちが日帰りの旅行や行楽に出かける際に使われていた言葉だったそう

でも、おれが思い浮かべる「遠足」は、小学校の学校行事ってイメージ

学校行事って、当たり前だけど、学校で行われるイベントだから、「学校から出発して目的地に着き、目的地から学校へ帰る」というのが、本来の学校行事としての「遠足」だと思う

つまり、本来「遠足」は「学校に帰るまでが学校行事たる遠足」だと思う

テンション・リダクションって何?──油断の落とし穴

じゃあ、「家に帰るまでが遠足です」って?

本来、遠足って学校に帰るまでだよね?

けれど、小学生は学校に着いた時点で、テンション・リダクションが起こります

テンション・リダクションというのは、緊張が解けて安心し、冷静さや注意力がなくなること

「目的地から学校に着くまで」と「学校から家に着くまで」──
どちらも“次の目的地”に向かって歩くことに変わりない

じゃあ、何が違うのか?

「目的地から学校に着くまで」は先生がついています
ふざけていたら先生に怒られる

でも、「学校から家に着くまで」は先生がいない
道でふざけても、注意してくれる大人がいない

先生という“緊張の糸”がなくなると、
友達同士だけの安心感に包まれてしまい、
遠足気分のまま冷静さを失って、
思わぬ危険や事故に巻き込まれる

だから先生は心配して、
「家に帰るまでが遠足です」と声をかけるんだと思う

これって、良寛の「木を降りきるまで気を抜くな」に繋がんね??笑

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